寺子屋の学習と往来物


はじめに

 

平安時代末から明治初頭にかけてつくられた教科書を「往来物【おうらいもの】」とよぶ。そもそも「往来」とは手紙、書簡の意で、往返一対の手紙の模範文をいくつも集めて初等教科書として編集したものを「往来物」と称した。

書簡文例による文字や文章の学習の伝統は、古く平安末期の『明衡往来[めいこうおうらい]<異称『雲州往来』>』までたどることができる。その後、鎌倉期の『十二月往来』をへて南北朝期の『庭訓往来』に至り、江戸時代に継承されてゆくわけである。


江戸時代には、経済の進展によって庶民層にも文字の習得の必要が生じたこと、また、印刷・出版技術が向上し、普及したことなどにより、多種多様な初等教科書類が大量に世に送られた。これらの教科書類の中には、『実語教』『童子教』のように手紙の模範文の体裁をとらないものもあったが、やはり「往来物」とよばれた。寺子屋においては、手紙の模範文による学習が伝統的なものでもあり、一般的なものでもあったので、初等教育の教科書類を「往来物」と総称していたのである。

 

目次

1.学習の順序

2.「いろは」から漢字へ

3.単漢字から熟語へ

4.消息型の往来へ

5.その他の往来物

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『永楽新童訓往来』の挿絵

1.学習の順序

庶民の教育機関「寺子屋」は、江戸では多く「手習所[てならいじょ]」と呼び慣わされたごとく、その教育内容の中心は「手習い」(習字)であった。「手習い」には素読が伴い、さらに都市及びその近郊では算術も授けられた。また『実語教童子教』や教訓歌などによる道徳的な教育も施され、その他にも小謡や茶、活花[いけばな]などの芸事などを付加する場合もあった。これらの需要に応じて「往来物」も多様に展開したが、習う順序は概ね

いろは → 数字 → 漢字(単字) →漢字(熟語・成句) → 名寄 → 短句・単文 → 日用文章
(石川松太郎『藩校と寺子屋』238頁)


といったものであった。その他にも、

「もとより一人ひとりの寺子の学習過程は、地域により時代により身分、階層により性別により、さらには寺子屋の性格、師匠の力量などにより千差万別であったが、一応、共通したところだけをとりあげてみると、(1)いろは、(2)数字、(3)名頭(姓字の頭字を列記したもの)、(4)村名・国尽、(5)諸証文、(6)用文章、(7)諸往来、(8)法規類、(9)漢籍といった順序で習ったようである。しかも易から難へ、単字から短句単文を経て日用文章そして古典へという段階を踏んで、系統的、段階的に学習したようである。とはいえ、御成敗式目や五人組帳前書などの法規類、さらには四書・五経といった漢籍まで進みえたのはごくまれであったようである。」
(久保田信之『江戸時代の人づくり』74頁)


といった分析もある。また、しばしば引用される『寺子屋物語』の次の部分も、『名頭字』『江戸方角』『商売往来』など寺子屋での学習の必須のものを挙げている。

「・・・・・・おのおのうちとけてかたりあへる中に、いさゝか世才のあるものいひけるは、我もあげまきのときおやのいひつけにて、手習せし事ありとて名がしらと江戸方角と村の名と商売往来これでたく山かくよみけるをば、いづれもかん心して、かく別の物しりなりとぞ評しける。」
(『寺子屋物語』橘千蔭作か。乙竹岩造『日本庶民教育史』所収)

なお、『村の名』は、居住地周辺の村名を書き連ねたもので、寺子屋の師匠が寺子たちに書いて与えたものである。

本学所蔵の絵双六『春興手習出精双六』もまた学習の範囲や学習段階を知る手がかりとなるであろう。これは飛び双六ではあるが、おおむね学習の階梯に沿ってコマが進められるように構成されているようである。『名頭』『国尽』に始まり、女子用の手習い書を織りまぜながら、『商売往来』や消息類を経て『庭訓往来』に至るようになっているのである。


さらに、次の記事は江戸の教育と明治の教育とを比較して述べてあって学習段階が分かりやすく見てとれる。

「見よ明治教育令の、未行はれざる時代に成長したる人の教育を、商売往来と、実語教童子教の素読が、今の尋常小学校の卒業に均しく、進て庭訓往来真田三代記の高等小学校及び、四書三国志の中学校に入る者とては、寥々晨星の類のみ、………」
(『北溟雑誌』第55号、明治26年12月25日「野呂間形を利用せよ」好奇生、黒石陽子「佐渡における文弥浄瑠璃」『佐渡郷土文化』73 1993.10 所収)

明治の教育が軌道に乗り始めた頃の雑誌の記事で、「佐渡」という限定された地域のものではあるが、ごく初歩に『商売往来』『実語教・童子教』、次に『庭訓往来』や軍記、その後に漢籍という順序で学ばれたことがわかる。

今回は、これらを参考にして、寺子たちの学習階梯をできるだけ追いながら江戸時代の「往来物」をみていきたい。

じつごきょうどうじきょう
実語教童子教

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『実語教童子教』の画像

ぞうじごたいながしらじ
増字五体名頭字

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『増字五体名頭字』の画像

えどほうがく
江戸方角

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『江戸方角』の画像

しゅんきょうてならいしゅっせいすごろく
春興手習出精双六

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『春興手習出精双六』の画像

2. 「いろは」から漢字へ

寺子は入門すると「いろは」から手習いを始める。多くの場合、師匠が手本を書いて与え、寺子はそれを臨書した。紙は貴重であったので同じ草紙に何度も書いて筆の運びを覚えた。

しゅうじちょう
習字帖

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『習字帖』の画像

師匠が与えた手本を綴じたものである。「いろは歌」を習った寺子はその素養を活かして漢字の世界へ入っていくことになる。

ななついろは
七字以呂波

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『七字以呂波』の画像

「い・ろ・は・に………」とそれぞれ同音あるいは同訓を持つ字を6つずつ集めたもので、集められたそれぞれの漢字にはまた別の音・訓が施されている。項目の頭は「いろは」から「京」、及び「一」「十」で構成され、「いろは歌」から漢字(単字)、数字まで学ぶことが出来るように工夫されている。

1657(明暦3)年刊『尊円流大字板七ついろは』が刊行されたものとしては最も早い例であるが、需要の多いこともあって、その後も多く刊行され続けた。また、『八体いろは』や『十体いろは』など、『七ついろは』を改訂・増補したものも出回った。

ななついろはならびにえしょう
七ツいろは並絵抄

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七ツいろは並絵抄

幕末には色刷りの絵の入ったものも刊行され、ともすると飽きやすい年少者の心を手習いに向かわせる工夫も試みられた。なお、幕末の洋学流行に乗じて、アルファベットをともなった『七ついろは』が登場する。

えいがくしょうけいななついろは
英学捷径七ツ以呂波

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『英学捷径七ツ以呂波』の画像

濁音、半濁音を加え、末尾は「京」ではなく「ん」となっている。アルファベットを利用することで、「七ついろは」の伝統から脱し、実質の音韻に基づこうとする姿勢が見られる。

どうもうえいがくしょほ
童蒙英學初歩

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『童蒙英學初歩』の画像

絵の中の詞書や序の漢文が、左から右に読むようになっている。幕末から明治初年頃には、このように洋装本と和装本、縦書きと横書きの混乱が見られる本がある。


3.単漢字から熟語へ

漢字を正しく覚えるために独特の工夫をし、幕末・維新期に至るまで広く普及したものに『小野篁歌字尽』がある。

一方、単漢字から熟語類に学習を進めるにあたって利用されるのが、「名寄型」と呼ばれる一群である。ある特定のテーマに基づいて、単漢字・熟語・成語を配列したもので、人名・官職・動植物・諸品など、さまざまなものがつくられている。その代表か「名頭字」で、「源・平・藤・橘・孫・彦……」など氏名によく使われる漢字を集めたものである。書簡をやり取りする上でも商売をする上でも、相手及び自分の名前を書くことが必要であったために古くから使用された。

『名がしら字/国づくし』(幕末頃刊・中本)は、「名頭字」に国名を集めた「国尽し」をあわせたものである。

『日用重宝萬文字尽』(1806(文化3)年刊・中本)のように、魚類、貝類、鳥類などに部立てしてそれぞれ語句を集めているものも現れた。一般には国名や地名を集めたものを羅列していくような往来物を「地理類」「国尽型」に分類するが、漢字の学習階梯の視点からすると、「名頭字」同様、テーマ別漢字語彙集の類とみなすこともできる。

『江戸方角』(1793(寛政5)年刊・中本)もこういったものの一類である。ただし、末部は「誠日々富貴繁栄而萬歳春不可有際限候恐惶謹言」と、書簡文に近づけようとしているようである。江戸城を中心にして各方角に分けて地名、町名、神社仏閣名などを連ねてゆくもので、江戸の地理とともに文字も学習するものである。これもまた生活を営む上で、江戸及び江戸近郊の人々にとって必須の学習事項であったものと思われる。

このような江戸地誌に関する往来物のうち、「陽春之慶賀珍重々々。富貴万福幸甚々々。……」と新年状の形をとる『江戸往来』(1669(寛文9)年初版・別称『自遣往来』)も広く流布したものの一つである。


内容は江戸に入ってくる各地の名産品、江戸の方角・地名・里程、玉川上水や両国橋のことなどで、様々な物の呼称とともに江戸に関する様々な知識を得るものである。なお、ここに掲げた二冊は、同年同板元から出されたものであるが、片方は無点無訓のいわゆる手本用で、もう一方は読み方のついた読本用と考えられる。これらの地誌的な学習事項は「都路型」の往来に受け継がれる。

          
『東海道往来』(幕末頃刊・中本)もその一つで「時得て咲や江戸のはな なみ静なる品川や やがてこえくる川崎の……」と「文字ぐさり」で東海道の宿を詠み込んだものである。

その他にも地誌的な教養は、『隅田川往来』『浅草詣文章』など「参詣型」と呼ばれる体裁の往来で盛んに取り上げられた。

おののたかむらうたじずくし
小野篁歌字尽

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『小野篁歌字尽』の画像

おののばかむらうそじずくしどうげせつよう
小野[バカムラウソ]字盡 : 道外節用

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『小野[バカムラウソ]字盡』の画像

ナガシラジ
名がしら字/国づくし

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『名がしら字』の画像

にちようちょうほうよろずもじずくし
日用重宝萬文字尽

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『日用重宝萬文字尽』の画像

えどほうがく
江戸方角

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『江戸方角』の画像

えどおうらい
江戸往来

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『江戸往来』の画像

じけんおうらい
自遣往来

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『自遣往来』の画像

とうかいどうおうらい
東海道往来

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『東海道往来』の画像

4. 消息型の往来へ

次第に漢字や熟語類に慣れると書簡の形式へと階梯は進む。
『商売往来』(1732(享保17)年刊・大本)は堀流水軒の手に成るもので、1694(元禄7)年の成立とされる。一編の書簡の形をとりながら、商売上必要な語彙を習得させるのが目的である。後にはそれぞれの語彙に絵を添えたもの(絵抄)や、『商売往来』(幕末頃刊・中本)のように頭注に「諸礼之図抄」その他の諸知識を盛り込むことも行われた。

このように書簡の形をとりながら、その中に配された語句を習得させる往来の中で、最もポピュラーなのが『庭訓往来』である。南北朝から室町時代頃に編集され、江戸時代を経て明治の初年に至るまで約5世紀にわたって使用され続けたものである。江戸時代を通して、南北朝時代の僧侶玄恵法印(『太平記』の編集にも関係したといわれる)の著作であるとされてきたが、現在は疑われている。1ヶ月に往返2通ずつと「八月十三日状」を加えた25通からなり、衣食住から職業、武具、仏教その他豊富に語彙が盛り込まれている。

『庭訓往来』(1726(享保11)年刊・大本)は主に手本として編まれたものである。このような形で広く利用されたが、一方で本往来は撰作時代が古く、江戸時代の庶民の生活実感とは隔たった部分もあったため、『 庭訓往来諺解大成』(1702(元禄15)年刊・大本)のように注釈書が早くから出され、『庭訓絵抄』(1688(貞享5)年刊・半紙本)や『庭訓往来図讃』(1699(元禄12)年刊・半紙本)などの絵抄も多く出された。また、幕末には、『庭訓往来絵抄』(元治年間(1864-65)刊・中本)のように絵を文中に入れるタイプも出された。


以上のように語彙の習得を基本とするものから、次には書簡文そのものの練習に移るが、書簡文例集の中で最も長い間流布したのは『風月往来』(1759(宝暦9)年刊・大本)である。また、幕末の頃には戯作者と呼ばれる人々が手がけた書簡文例集も少なからずある。例えば、『大全一筆啓上』(1817(文化14)年刊・半紙本・式亭三馬)、『婦人手紙之文言』(1820(文政3)年刊・半紙本・十辺舎一九)、『児女長成往来』(1823(文政6)年刊・半紙本・十辺舎一九 )、『女中用文玉手箱』(1853(嘉永6)年刊・半紙本・山東京山)がある。この他にも滝沢馬琴や為永春水などもこれらと同様な用文章類を書いており、当時の戯作者たちの意識を探る上でも興味深い。

しょうばいおうらい
商売往来

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『商売往来』の画像

しょうばいおうらい
商売往来

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『商売往来』の画像

しょうばいおうらい
商売往来

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『商売往来』の画像

ていきんおうらい
庭訓往来

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『庭訓往来』の画像

ていきんおうらい
庭訓往来

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『庭訓往来』の画像

ていきんおうらい
庭訓往来

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『庭訓往来』の画像

ていきんおうらいげんかいたいせい
庭訓往来諺解大成

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『庭訓往来諺解大成』の画像

ていきんえしょう
庭訓絵抄

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『庭訓絵抄』の画像

ていきんおうらいずさん
庭訓往来図讃

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『庭訓往来図讃』の画像

ていきんおうらいえしょう
庭訓往来絵抄

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『庭訓往来絵抄』の画像

ふうげつおうらい
風月往来

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『風月往来』の画像

たいぜんいっぴつけいじょう
大全一筆啓上

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『大全一筆啓上』の画像

とうしょまんようふじんてがみのもんごん
婦人手紙之文言

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『頭書万用婦人手紙之文言』の画像

じじょちょうせいおうらい
児女長成往来

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『児女長成往来』の画像

じょちゅうようぶんたまてばこ
女中用文玉手箱

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『女中用文玉手箱』の画像

5. その他の往来物

寺子屋では、語彙を増やし、字を上手にすることばかりでなく、身に着けなければならないさまざまな教訓も授けられた。中でも『実語教・童子教』(1690(元禄3)年刊・大本)は『庭訓往来』同様、江戸時代においては最もポピュラーだったもので、『実語教具注抄』(刊年未詳・大本 )のような注釈書や、『実語教童子教絵抄』(1861-64(文久年間)年刊・大本)のような絵抄が数多く出た。『実語教』は平安時代末期、貴族の手によるもの、『童子教』は鎌倉時代の僧侶の作と考えられている。江戸時代にはこの二者は一緒にして編集されるのが一般であった。

さて、都市とその近郊では商業活動を行う上で必須であった算術を教えることもあった。算術としては、吉田光由著の『塵劫記』(1627(寛永4)年初版)が最も流布した。『万宝塵劫記』(1694(元禄7)年刊・半紙本)や『新編塵劫記』(刊年未詳・大本)は寛永年間から明治中期に至るまで版を重ねて様々な体裁のものが出された。

『早学算切記』(1868(明治初年)頃刊か・中本)は、柱刻を「稚ぢんかう記」とする如く『塵劫記』の影響下に成ったものだが、表紙は当時の合巻(幼童向けの絵が主体の本、草双紙)さながらである。子どもの心をなんとか算術に引きつけようとする工夫の一つであろう。

じつごきょうどうじきょう
実語教・童子教

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『実語教童子教』の画像

じつごきょうぐちゅうしょう
実語教具注抄

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『実語教具注抄』の画像

しんこくくんてんじつごきょうえしょう
新刻訓点実語教画抄

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『実語教童子教絵抄』の画像

ばんぽうじんこうき
万宝塵劫記

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『万宝塵劫記』の画像

しんぺんじんこうき
新編塵劫記

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『新編塵劫記』の画像

はやまなびさんせつき
早学算切記

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『早学算切記』の画像

(解説 : 丹 和浩【たん かずひろ】 | 故人・本学附属高等学校大泉校舎教諭)

※本稿は『特別展近世庶民教育資料「教育双六と教科書」目録:東京学芸大学創基120周年記念』(会期・会場:平成5年12月6日-10日 東京学芸大学芸術館展示場)掲載の解説「Ⅱ往来物」を再編集したものです。