近年、素読や暗誦、朗読を勧めたり、その効果を説いたりするような書籍がたいへん流行しました。
狂言師野村萬斎の「ややこしや~」で子どもたちに人気の「日本語であそぼ」も、この流れに沿ったもの(同じ論者による監修)ですね。難しい意味内容を把握させるのは後のことにして、言葉のリズムや響きを身体にしみこませることを先行させるというやり方です。他方、漢字の書き取りや、百マス計算などを十分にやらせて、基礎技能・基礎知識に習熟させることも、特に小学校の現場などでは話題になったようです。最近では、脳の活性化にも有効だということで、大人のための計算ドリルや音読用テキストも出版されています。
このように、身体性を伴って覚えたり、反復習熟して身につけたりする、いわば、「形」から入る教育が見直されているようです。
しかし、振り返ってみると、伝統的な日本の芸道や習い事は、「形」から入ります。江戸時代の初等教育-読み書き算盤-もやはり、「形」の習熟に重きを置いていました。
手習いのお師匠様から「いろは」の手本を書いていただき、幾度も書きます。紙は貴重でしたから、半紙を束ねた手習い用の冊子を墨で真っ黒にするまで使います。さらに筆を水で濡らして黒い紙の上で幾度もなぞって練習しました。十分練習したところで清書してお師匠様に見ていただきます。これを繰り返し、「いろは」や数字から、「名頭字【ながしらじ】」(人の名前によく使われる文字を集めたもの)、居住地付近の地名など、次第に文字も語彙も増やしていきます。
当然、読めなければいけませんから、声に出して読むことも行われましたが、これも覚えてしまうほど何度も読むのが普通だったようです。
計算についても、かけ算の「九九」はもちろん、割り算の「八算」なる表も覚えてしまいました。このように、身体にしみこむまで習熟させるやり方が、寺子屋教育の主要な部分を占めていたと考えられます。
この手習い用のテキストとして、江戸時代を中心に数多く出版されたのが「往来物【おうらいもの】」です。
そもそも「往来」とは、往復の書簡の意で、平安時代後期に編まれた『明衡【めいこう】往来』以来、手紙のやりとりの形態をとって文字を学ばせるためのテキストでした。後には、手紙文以外のものも行われ、特に江戸時代には、教訓、地理・歴史、法政、算学から実業的な内容を含むものまで幅広い広がりを見せました。
本学図書館にはこの「往来物」のコレクションがあります。「望月文庫」といわれる特殊文庫がそれで、代表的なものはホームページでも公開されています。